書評

「われ笑う、ゆえにわれあり」レビュー 哲学者 土屋賢二さんのユーモアが斬新

われ思う、ゆえにわれあり

こんにちは。ロビン(@chiteki-robin)です。

哲学が好きです。

子供の頃からいつもぼんやりいろんなことを考えていました。

今でも一日中考え事してますね。

わたしが子供の頃からずっとやっていたのは哲学だったんだって最近気づきました。

 

今日はご紹介するのは、こちらの本。

「われ笑う、ゆえにわれあり」

著者は土屋賢二さん。哲学者でエッセイスト。

この本が出版されたのは1997年。

20年以上前に書かれた本なんですが、ユーモアは時代を超越する。

内容は正直薄い。くだらない。時々くどい。

でもついつい気になって読んでしまう。そんなエッセイです。

著者はそれを狙っているのだと思う。

他人のものの見方や考え方を知るのは面白い。

これが哲学的考えなのか、単にこの方がひねくれてるだけなのか。

この本を読んで哲学というものがますます分からなくなってしまいました。

 

短編のエッセイが複数収められているのですが、男女間の恋愛について書かれているものが面白かったです。

 

愛ってなんぼのものであるか?<懐疑主義的恋愛論>

この方の主張によると、愛(男女間の恋愛)には必ず条件がつくということです。

無条件で相手を好きになることは絶対にない、と。

極論を述べれば、「恋愛とは諸条件を愛することなのだ」そうです。

外面的条件、内面的条件と大まかに分けられるけれど、何を基準とするかに関係なく、どちらにせよ自分の利益を主張しているだけ。

「優しい人が好き」という人の例を挙げてみると、「どんな異性に対しても優しい」「自分以外の異性に優しい」という性質は求められておらず、そこには「自分だけに奉仕をしてくれる優しさ」が求められている。

「頭の回転が速い人が好き」も同様に。

「浮気をしてもばれない策略を巧妙に考え、不意打ちの尋問を受けてもとっさに切り抜ける能力」は求められていない。

なるほどね。そうかもしれない。

結局、求められているのは自分にとって都合のいい相手なのだ。

外見が少しぐらい変わってしまっても、愛は続くと思う。

でも、もし愛する人がカエルや机や人間以外の形になってしまったとしたら、愛は続くだろうか?

想像できないほど性格が変わってしまったり、突然狂信的な宗教に目覚めたり、人には決して言えないような趣味に走ってしまった場合、愛は続くだろうか?

どんなに極端に相手が変化してしまっても、愛は変わらないだろうか?

愛されているのはその人自身ではなく、「人間の形をした」「その人の持つ性質」なのである。

この性質が失われたとき、愛が失われる可能性はある。

 

プラトニック・ラブ(プラトン的愛)について

古代ギリシア時代、プラトンは愛が何に向けられているかについて考えた。

一般的にプラトニック・ラブとは「肉体的欲求を離れた精神的な結びつき」と解釈されている。

 

たとえば「顔に魅力を感じる」場合、そこに目と鼻と口がついているから好きになるのだろうか?

それがタンパク質でできているから好きになるのだろうか?

顔が顔であるから好きになるのだろうか?どれも違う。

目と鼻と口がついたタンパク質でできた顔すべてを好きになる訳ではない。

その中に美しさがあるから魅力を感じるのである。内面も然り。

その美しさそのものを「美のイデア」と呼ぶ。

プラトンによると、直接愛されているのは「美しい」という性質そのものである。

私たちは美しさを愛している。その美しさを持った人に惹かれているのである。

 

また一方で、無条件の愛というものも確かに存在する。

それは親から子への愛。特に母親が子供を愛するのに条件はいらない。

女性という生き物は夫を取り替えたいと思うことはあっても、自分の子を他の子に取り替えたいとは絶対に思わない。

どんなに出来が悪くても、見栄えが悪くても、性格が大幅に変わっても、犯罪者になっても見捨てたりしない。

ペットなど動物に注がれる愛情もこれに等しく、無条件で愛することができる。

 

先程のプラトニック・ラブに話は戻って、どんなに美しく高尚と思われるプラトニック・ラブも犬への愛には敵わないというのが結論なのである。

 

それからこの本を読む際は、女性をとことん賛美する<超好意的女性論序説>の章も併せて読んでもらえば、より理解が深まります。

 
この本を読んだら、果たして自分の考えは正しいのだろうか?と疑ってしまいたくなります。

いろんな価値観に出会うこと、それが哲学の醍醐味だと思ってます。